不動明王について

親しみのあるお不動さん

 お不動さんの愛称で親しまれている不動明王。実は、インドで仏教が生まれる前から存在していました。その後、仏教に取り入れられ、インドから伝播し、中国(唐)から弘法大師 空海(774〜835)によって日本に請来されたのです。
 その後、さまざまな宗派にもたらされ広まっていった不動明王信仰は、あらゆる障害を取り除く力があるとされ、時代にあわせて国家安泰や個人の健康、増益などのご利益を求められたのです。

オールバック(総髪)とカーリーヘアー(巻髪)

 さまざまな宗派に受け入れられた不動明王には、主に2種類の図像が存在します。それは空海が請来した「大師様(よう)」の不動明王と、天台宗の僧 安然(あんねん・841〜915)が基本的な特徴をまとめた「十九観」の不動明王です。
 前者は、威厳のある整った顔をしていて、密教における鎮護国家の本尊とされました。密教の教えで不動明王は大日如来の化身とされるため、高い地位の象徴として髪形もオールバックのように綺麗に整った「総髪」となりました。
 後者は、不動明王が古代インドで奴婢だったとして、原初の姿をもとにした「十九観」です。大師様と黄不動のスタイルが混ざった19の特徴が規定されました。黄不動は天台宗の僧 円珍が修行中に遭遇したという黄色い不動明王で「巻髪」をしています。

金色のお不動さん

平安時代、新たな不動明王の図像を生み出した人物がいました。それが円珍(814〜891)です。延喜2(902)年の『天台宗延暦寺座主(えんりゃくじざす)円珍伝』には感得のエピソードが記されています。
 承和5(838)年、円珍が座禅をしていると、何もない場所に突然金色に輝く人影が現れました。驚いて尋ねると「我は金色の不動明王なり、常に汝の身を擁護するものである」と答えました。この円珍が感得した不動明王を、天台宗では「黄不動」と呼んでいます。

大日如来の使者 不動明王

 不動明王は、仏教の一派である密教の本尊として用いられました。災いの除去や外敵の打破、延命、招福などの現世利益があると信じられたのです。
 密教の教えは、万物の根源である大日如来が中心です。明王を含むすべての仏は大日如来から生まれ、大日如来に還るとされます。そのため不動明王は、大日如来の使者として恐ろしい形相で人びとを叱咤するのです。

怒りの形相から、涙

「泣不動縁起絵巻」や「不動利益縁起」など、不動明王のご利益を記した絵巻物が、いくつも現存しています。この中に納められた次のエピソードは中世の有名な話で、繰り返し絵巻に描かれました。
 “平安時代中期のことです。三井寺の僧 智興(ちこう)が重い死の病にかかり苦しんでいました。そこで、智興を慕っていた弟子 証空(しょうくう)は代わりに病気を受けることを決心しました。しかし、その病はあまりに苦しく、不動明王に助けを求めます。すると、不動明王は血の涙を流して身代わりを申し出たのです。病を受けた不動明王は鬼によって地獄に連れて行かれましたが、不動明王がやって来たことに驚いた閻魔によってこの世に戻されました。”
 これは「すべての衆生を救う」という不動明王の献身的な護身仏の性格を表す物語として、広く世の中に受け入れられました。

従えている童子たち

不動明王は、矜羯羅童子、制多伽童子という2人の子供を従えて祀られることがあります。「十九観」に説かれている「二童子」と呼ばれる従者です。
 矜羯羅童子は不動明王の「慈悲」の化身で、穏やかな性格。一方、制多伽童子は不動明王の「方便」(実践)の化身で、怒りっぽい性格をしています。
 この二童子に6人の童子を加えて従えていることもあり、計8人の童子は「八大童子」と呼ばれます。

剣になった不動明王

不動明王の化身として信仰されている倶利迦羅剣と呼ばれる剣があります。それは、不動明王が右手に持つ利剣に龍が絡みついて飲み込もうとしている形で、外道を降伏するために変化した姿です。
 昔、不動明王が魔物と智慧や力を競ったことがありました。不動明王が智慧の剣から姿を変えて巨大な倶利迦羅龍王となり、口から怒濤のような雷鳴をとどろかすと、それを聞いた魔物は震え上がりひるんでしまったといいます。

参考文献
・中野玄三「不動明王」(『日本の美術』238巻)1986年 至文堂
・下泉全暁『不動明王 智慧と力のほとけのすべて』 2013年 春秋社
・正木晃「明王像のすべて」『日本一わかりやすい仏像の基本』2014年 ?出版社

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