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運慶について

貞応2(1223)年に運慶が亡くなった後は、弟子や息子たちが慶派を正当に受け継ぐ仏師として活躍しました。
運慶の活躍はこちらからご覧ください。

Discover the 運慶,呂海舛

Discover the 運慶△呂海舛

運慶と共に活躍した兄弟弟子たち

 運慶が発願した法華経(『運慶願経』)には、父・康慶の工房に在籍した快慶や、源慶らがいました。
 康慶に師事していた源慶は、康慶の没後、運慶に師事します。興福寺北円堂弥勒仏像(左図)台座銘に名があり、運慶と共にこの像を制作したことが判明しています。また運慶の没後、嘉禄2(1226)年にみずから主宰して造立した仏像が奈良・如意輪寺の蔵王権現です。
 また同じく康慶の弟子であった宋慶は、『運慶願経』以前に治承元(1177)年康慶作の静岡・瑞林寺地蔵菩薩坐像銘記に名が記されており、その後は保寧寺の阿弥陀三尊像を造っています。

慶派を継いだ運慶の子どもたち

 南北朝時代に成立した『東宝記』第一「南大門」条などによれば、運慶には湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助の少なくとも6人の仏師の息子がいたことが知られており、また如意という娘もいました。
 長男である湛慶(1173〜1256)は運慶だけではなく快慶とも仕事をしていたことがわかっており、仏師として高い位を有していました。嘉禄3(1227)年には東大寺に従事する仏所の長を任されています。建長元(1149)年の火災で焼けた蓮華王院本堂の千体千手観音像再興の大仏師となり、中尊専修観音坐像を完成させたほか、千体千手のうちの9体も造像しています。
 湛慶はまた、貞応3(1224)年に両親のために阿弥陀如来の丈六像を制作しています。運慶の家族が仏教を通じて深い絆で結ばれていたことがうかがえます。

その他の子息たち

 三男の康弁は興福寺竜燈鬼像、四男の康勝は六波羅密寺の空也上人像などで知られています。
 親子で造った像も残っています。たとえば、興福寺南円堂(もとは北円堂)の四天王(下図)は、運慶の指導下で息子たちが制作したもので、増長天は湛慶(長男)、増長天は康運(次男)、広目天は康弁(三男)、そして多聞天は康勝(四男)がそれぞれ担当しました。
 同じく運慶の指揮のもと、同寺北円堂の無著菩薩像を運助(六男)、世親菩薩立像を運賀(五男)が制作しています。
 湛慶以外は生没年も不詳ですが、慶派を受け継ぐ仏師としてそれぞれが活躍していました。

運慶の孫が引き継ぐ系譜

 康勝の四男(運慶の孫)である康円(1207〜?)の活躍も知られています。蓮華王院造像で湛慶に師事しており、東寺講堂本尊製作中に没した湛慶のあとを継いで像を完成させたのは康円でした。代表作は、文永10年の東京国立博物館文殊五尊像(興福寺旧像)で、建長元(1249)年から文永12(1275)年までの活動がたどれます。
 ほかにも運慶の系譜と推定される仏師がいます。蓮華王院本堂中尊の造立で康円とともに仕事をしていた康清や、長谷寺本尊十一面観音像再興に携わった運実と慶秀が運慶の孫である可能性があります。そして運実についていた湛康は康円の子、つまり運慶のひ孫として「奈良方系図」に挙げられています。

参考文献
・山本勉「大日如来像」(『日本の美術』374)1997年 至文堂
・山本勉「新出の大日如来像と運慶」(『MUSEUM』589号)2004年
・根立研介『運慶―天下復タ彫刻ナシ』2009年 ミネルヴァ書房
・山本勉監修『運慶 時空を超えるかたち』(『別冊太陽』日本のこころ176)2010年 平凡社
・瀬谷貴之『運慶と鎌倉仏像―霊験仏をめぐる旅―』(コロナ・ブックス)2014年 平凡社
・山本勉監修『運慶×仏像の旅』2017年 JTBパブリッシング
・山本勉監修『運慶大全』2017年 小学館

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