吉祥天について

海から生まれた 美の女神ラクシュミー

 ラクシュミーという名の「美と繁栄の女神」が仏教に取り入れられ「吉祥天」となりました。インドにはラクシュミーにまつわる「乳海攪拌」という天地創造神話が残っています。この話は古代インドの叙事詩に載っており、アンコール・ワットにはレリーフがあります。
 昔、善神・ヴィシュヌと悪神・アスラが不老不死の聖水「アムリタ」を取り出す方法を協議していたとき、ヴィシュヌが「皆で海を攪拌すればアムリタが出てくるのでは」と提案し、山を引き抜き、これを棒にして海をかきまぜることにしました。
 1000年間、海中をかき回し続けるとやがて海はミルクのようになり、中から太陽や月など、様ざまなものが出現、ついにはアムリタや美しい女神・ラクシュミーまで現れました。
 それぞれの神たちが競ってそれらを手に入れようとしましたが、最後にはアムリタは善神たちのものとなり、ラクシュミーはヴィシュヌを夫に選びました。

富をもたらす 理想の女性像

 吉祥天は、日本で豊かな恵みを与える女神として広く崇拝されました。唐・長安3(703)年に漢訳された国家の鎮護を願う経典『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の「大吉祥天女増長品」には、毘沙門天の近くに住む吉祥天を供養すれば、多くの富を得られると説かれています。とくに奈良時代には天下泰平・五穀豊穣を目的とする多くの法会が営まれました。
 吉祥天は、民衆にも広まり、多くのお話の中に登場します。たとえば『日本霊異記』や『今昔物語集』のような平安時代の仏教説話のなかには、この天女が人びとに福徳を授ける話があります。また、『宇津保物語』や『源氏物語』などの平安物語には、理想の女性にあげられています。

どちらが七福神の一員? 吉祥天と弁財天

 七福神の女性の神様といえば弁財天ですが、昔は弁財天ではなく吉祥天がその一員でした。奈良時代から平安時代にかけて、貴族たちは吉祥天と弁財天を美しい女性の仏として好んでおり、同一視していたのです。
 ところが鎌倉時代以後、日本の神様と仏が同一のものとなる神仏習合が盛んであった頃、鎌倉時代に信仰の高まりをみせていた弁財天は庶民に強く支持され、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)や宇賀神(うがじん)と習合していきました。一方、吉祥天は日本の神様と習合することができず、吉祥天信仰は後退し、弁財天信仰に吸収されていったのです。また、七福神の座を、心優しい吉祥天が嫉妬深い弁財天に譲ったという説もあります。

印相・・・与願印(よがんいん)
持物・・・宝珠(ほうじゅ)というあらゆる願いを叶える珠
服装・・・唐時代の礼服をまとう

家族で祀られる仏像

 吉祥天は単独で祀られることもありますが、家族とともに祀られることもあります。
 『金光明最勝王経』の「四天王護国品」には、釈迦の左右に吉祥天、毘沙門を配することが説かれています。鎌倉時代は、この二尊、あるいはこれに子供を加えた三尊が盛んに造られました。この子供の名前は善膩師童子(ぜんにしどうじ)といい、5人いる子供たちの代表として造像されています。毘沙門天を中心に、小さく造られた左右の吉祥天と善膩師童子が一緒に、祀られます。この三尊は円満な家庭を象徴しており、夫婦円満のご利益があります。

参考文献
・根立研介「吉祥天・弁財天」(『日本の美術』第10号) 至文堂 1992.10
・『天の仏像のすべて』 エイ出版社 2013.9

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